優秀な人ほど新規事業で失敗する|既存事業のエース抜擢が9ステップの罠を生む構造
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「優秀な人ほどハマる最大の落とし穴」とは、既存事業で圧倒的に成果を出してきた人物ほど、新規事業の立ち上げ期で構造的に失敗するという現象である。既存事業では正しい仕事の進め方が、新規事業では1つたりとも出現させてはならない行動になる、という前提転換に起因する(麻生要一『新規事業の実践論』第5章)。
日本企業の現場で繰り返される、最も多い失敗パターン
私は10年以上、260社を超える大企業の事業創出と、23,800を超える事業プロジェクトの伴走に関わってきた。その現場で、ほとんど例外なく繰り返される失敗パターンが一つある。
「既存事業のエースを、新規事業のリーダーに抜擢する」。
経営層の発想としては自然な意思決定である。既存事業で圧倒的に成果を出している、社内で最も信頼されている人物。新しい事業を任せるなら、この人しかいない。役員会でも合意が取れる。本人の昇進機会としても妥当である。
しかし、1年後の景色はほぼ決まっている。事業計画書は分厚くなる。社内向けプレゼン資料は美しくなる。競合分析は精緻になる。市場規模の試算は何度も差し替えられる。そして肝心の事業は、まったく動いていない。顧客には、一度も会っていない。あるいは会っているとしても、グループインタビューを業者経由で1回やった程度である。
このパターンを、2019年に刊行した拙著『新規事業の実践論』(NewsPicksパブリッシング)の第5章で「優秀な人ほどハマる最大の落とし穴」として体系化した。本書を出してから6年半が経つが、この落とし穴の構造は1ミリも変わっていない。むしろ AI 時代に入り、構造はより深く、より見えにくくなっている。
本記事では、なぜ「優秀な人」ほど新規事業で失敗するのか、その構造を整理する。これは「優秀な人を新規事業に使うな」という乱暴な結論を述べる記事ではない。優秀な人が構造的に失敗する理由を解き、そのうえで組織として、本人として、どう対処すべきかを論じる記事である。
「優秀な人」とは何か ── 既存事業の文脈での優秀さ
まず、「優秀な人」という言葉の定義から始めなければならない。
ここで言う「優秀な人」とは、既存事業において圧倒的に成果を出している人物を指す。営業ならトップセールス、企画なら最も筋の良い事業計画を書ける人、管理なら数字を一切外さない人、開発なら最短で品質の高いプロダクトを出せる人。組織で「あの人は優秀だ」と言われている、その人である。
なぜそう呼ばれているか。理由ははっきりしている。これらの人物は、既存事業の文脈において、以下のような仕事の進め方を体に染み込ませてきたからである。
- 上司に確認を取り、進め方の合意を得る
- 社内の他部署の事例を調査し、過去の知見を活用する
- 競合の動向を調査し、参入戦略を組み立てる
- 先輩と会議し、アドバイスを得る
- 資料を作り込み、社内の合意を取り付ける
書籍の中で、私はこう書いた。
「これらの仕事は『既存事業の業務』においては、大変価値がある素晴らしい仕事の進め方です。既存事業においてはこの『無限の仕事』をやればやるほど失敗のリスクが下がり、成功確率が高まり、結果業績につながり、成果が生まれます」。
ここを誤解してはならない。確認・事例・調査・会議・資料を、社内・上司・先輩・競合に対して丁寧に行うことは、既存事業では正解である。失敗リスクを下げる、再現性を高める、組織の合意を得て動く、説明可能性を担保する。これらすべて、既存事業の運営に必須の作法である。
「優秀さ」は、既存事業という文脈の中で定義されている概念だ、ということを、まず確認しておきたい。
優秀な人ほどやってしまう、間違った新規事業開発の9ステップ
問題は、この「優秀さ」が新規事業の立ち上げ期に持ち込まれたときに起きる。
私が現場で繰り返し見てきた、優秀な人ほどやってしまう間違った新規事業開発の進め方を、9つのステップとして整理した(『新規事業の実践論』第5章)。これは特定の業界、特定の事業に固有の話ではない。製造業でも、金融でも、消費財でも、通信でも、ほぼ同じ順番で同じことが起きる。
ステップ1:「前提条件」の整理&上司に「今後の進め方」の確認
新規事業開発プロジェクトに着任したまず最初に、優秀な人がやることはこれである。「どこまでが対象事業領域か」「予算はいくらか」「いつまでに何を出すか」「どんなアウトプット形式が求められるか」を整理し、上司に確認を取りに行く。既存事業では当然の作法だが、新規事業では、ここから罠が始まる。
ステップ2:社内の他部署の事例収集
「過去にうちの会社で似たような新規事業はあったか」「どんな結果だったか」「何が失敗要因だったか」を社内で聞き回る。既存事業のエースは、社内ネットワークが強いので、これがやれてしまう。
ステップ3:他社の事例調査・海外事例調査
「他社はこの領域で何をやっているか」「海外ではどんな成功事例があるか」を調査する。コンサルティングファームに調査依頼を出すこともある。資料が美しくなる。
ステップ4:市場調査という名のアンケート、および浅いインタビュー
「市場規模を試算する」「顧客ニーズを定量的に把握する」という名目で、調査会社経由のアンケートや、グループインタビューを1〜2回実施する。「顧客の声を聞いた」というアリバイが作られる。
ステップ5:社内の会議室で繰り返されるアイディア会議
社内のメンバー数名で会議室にこもり、ホワイトボードに付箋を貼ってアイディア出しをする。1回目で出ない場合、複数回行う。発散と収束を繰り返す。
ステップ6:先輩や上司からのアドバイス
ある程度の方向性が見えてきたところで、社内の先輩や、関連部署の経験者、役員クラスに「壁打ち」を依頼する。アドバイスをもらう。
ステップ7:6を踏まえた社内の会議室での議論
もらったアドバイスを反映するため、再び社内の会議室に戻る。議論を繰り返す。微修正を重ねる。
ステップ8:事業計画・業務工程の立案
ここまでの議論を踏まえて、事業計画書を作成する。3年後の売上、業務工程、組織図、KPI、リスク要因。きれいな資料が出来上がる。
ステップ9:プレゼン資料の作成
役員会、経営会議、取締役会向けのプレゼン資料を作成する。優秀な人なので、資料は美しい。論理は整っている。質疑応答にも耐える。
そして1年が経つ。顧客には、一度も会っていない。
9ステップの何が問題なのか ── 既存事業の作法が新規事業で逆効果になる構造
ここまで読んで、違和感を持たれた読者もいるかもしれない。「ステップ2の他部署事例収集も、ステップ3の他社事例調査も、ステップ4の市場調査も、それぞれは妥当な活動ではないか」と。
その違和感は正しい。それぞれのステップは、既存事業の文脈で見れば、すべて妥当である。むしろ既存事業では「やらなければ怒られる」レベルの基本動作である。
問題は、これらの活動を9つ連結させたときに何が起きるか、である。
9つのステップは、すべて社内向けの活動である。確認・事例・調査・会議・資料の5動作を、社内・上司・先輩・競合の4対象に対して行っている。9つの動作と4つの対象を組み合わせれば、無限の仕事が生まれる。優秀な人は、この無限の仕事を、優秀さゆえに、すべて丁寧にこなしてしまう。
そして、9ステップのどこにも、「顧客に会う」という活動が入っていない。「仮説を立てて顧客に問う」「顧客の反応を見て仮説を変える」「変えた仮説でまた顧客に問う」という、新規事業の唯一の本質的な活動が、9ステップの中に存在しない。
書籍の中で、私は強い言葉でこう書いた。
「既存事業では疑う余地もないほど正しい仕事の進め方が、新規事業開発の立ち上げ期においては、『1つたりともやってはいけないこと』になる。ここに、優秀な人ほどハマってしまう最大の落とし穴があるのです」。
「1つたりとも」と書いた。「ほとんど」「多くは」ではない。1つたりとも、である。これは私が現場で繰り返し見てきて、何度も「ここまで強く書いて大丈夫か」と編集者と議論し、それでも弱めなかった表現である。今でも弱めない。
なぜ「優秀な人」ほど深くハマるのか ── 4つの構造的理由
ではなぜ、優秀な人ほどこの罠に深く落ちるのか。能力の問題ではない。むしろ能力が高いがゆえに、構造的に深く落ちる。4つの理由がある。
理由①:成功体験の蓄積による「正しい仕事の進め方」の内面化
既存事業で成果を出してきた人ほど、9ステップ的な仕事の進め方が体に染み込んでいる。これは知識ではなく、身体動作である。
朝、机に着いて、メールを開く。上司から振られた案件を見る。まず何をするか。「過去の社内事例を調べる」「関連部署にヒアリングする」「先輩にアドバイスを求める」。考える前に体が動く。
この身体動作が、既存事業で評価され、評価されたことで強化され、強化されたことでさらに身体に染み込んだ。優秀な人ほど、この往復回数が多い。つまり、優秀な人ほど、9ステップを身体動作として染み込ませている。
新規事業に着任しても、無意識のうちに同じ進め方を選ぶ。「顧客に会う前に、まず社内事例を整理しよう」「顧客に会う前に、まず競合分析をしよう」「顧客に会う前に、まず上司に進め方を確認しよう」。1つずつは妥当に見えるが、結果として顧客に会う日は永遠に来ない。
理由②:失敗回避の組織文化への適応
大企業の既存事業では「失敗のリスクを下げる」ことが高く評価される。これも組織として正しい。既存事業は失敗するとお客様に迷惑がかかり、ブランドが毀損され、業績が落ちる。失敗回避は美徳である。
上司への確認、過去事例の調査、競合分析、入念な事業計画。これらはすべて、失敗リスクを下げる活動である。既存事業で評価されてきた人は、失敗回避の作法を体に染み込ませている。
ところが新規事業は、本質的に「失敗を前提に学ぶ」活動である。仮説を立て、顧客に問い、外れを引き、仮説を変える。これを300回繰り返す中で、たった1つの当たりに辿り着く。失敗が活動の前提に組み込まれている。
失敗回避の作法を持ち込むと、失敗が起きないように、顧客に会う前の準備を厚くしようとする。準備が厚くなれば顧客に会う頻度は下がる。顧客に会わなければ仮説は外れない(外れたことが分からない)。仮説が外れなければ学習は起きない。失敗回避の作法そのものが、新規事業の唯一の本質である学習を止める。
理由③:説明可能性への執着
既存事業の意思決定では「上司に説明できること」が極めて重要である。投資判断、人員配置、予算配分、すべて説明可能性が前提になる。「なぜそれをやるのか」「根拠は何か」「ROIはどう計算したか」。説明できなければ通らない。
優秀な人は、説明可能な行動に時間を使う癖がついている。資料を作る、調査をする、会議を重ねる、合意を取る。これらは「何をやったか」を説明できる行動である。
新規事業の立ち上げ期に必要な行動は、これとは性格が違う。「とにかく顧客に1日2回会う」「会うたびに仮説を1つ変える」「300回会って外れを引き続ける」。これらは、活動の途中段階では説明が成立しにくい。「今日は誰に会いましたか」「何を聞きましたか」「結果はどうですか」と問われても、「外れました」としか答えられない期間が長く続く。
優秀な人は、この「説明できない期間」に強い違和感を持つ。上司に報告できる材料がない、自分の活動を正当化できない、評価面談で何を語ればいいか分からない。違和感を解消するために、説明可能な活動(資料作成、調査、会議)に戻る。9ステップに逃げ込む。
理由④:抜擢の構造そのもの
ここまで本人の問題のように書いたが、実際には、組織の構造に起因する部分が大きい。
多くの企業で、新規事業開発リーダーには「既存事業のエース」が抜擢される。理由は単純で、既存事業で成果を出した人物しか、経営層から信頼されていないからである。
経営層は「優秀な人なら何でもできる」と考えがちだ。営業で実績を出した人なら、新規事業も立ち上げられるはず。技術で評価された人なら、新事業の開発もこなせるはず。これは経験則的に間違っているのだが、組織の意思決定としては最も通りやすい。
抜擢された既存事業のエースは、「成果を出す」という強いプレッシャーを受ける。短期で見える成果を出さなければ評価が下がる。そして、自分が知っている唯一の「成果を出す方法」は、既存事業の作法、つまり9ステップである。構造的に、9ステップに逃げ込まざるをえない。
経営層が「優秀な人を抜擢した」と思っているその瞬間に、「優秀な人ほどハマる落とし穴」の構造が組織的に再生産されている。本人の問題ではなく、組織が構造的に作り出している現象である。
「優秀な人」と「変革人材」の違い
ここで論点を一段上げる必要がある。
私は『新規事業の実践論』に続いて、2024年に『新規事業の実践論 経営編』(NewsPicksパブリッシング)を上梓した。経営編の第4章で、「変革人材」という概念を体系化している。
既存事業のエース=「優秀人材」と、新規事業を立ち上げられる人物=「変革人材」は、能力の種類が異なる。片方が片方の上位互換ではない。
優秀人材は、既存の型を高速かつ正確に回す能力に長けている。組織の中で、決められたゴールに向かって、決められた方法で、最短距離で成果を出す。社内ネットワーク、過去事例の活用、競合分析、合意形成、これらを高速で回せる。
変革人材は、まだ存在しない型を作る能力に長けている。ゴールが見えない、方法が定まらない、成果の定義そのものが揺れる、そういう環境で、自分の意志(Will)を起点に、不確実な現場で仮説と顧客の回転を回し続けられる。
両者は対立するものではない。会社には両方が必要である。既存事業を回すには優秀人材が必須で、新規事業を立ち上げるには変革人材が必須である。問題は、この2種類の人材を組織が区別せずに、優秀人材を新規事業に放り込んでしまうことにある。
変革人材の能力構造は、書籍では Network(社外含めた人的ネットワーク)、Execution(不確実環境での実行力)、Knowledge(事業創造の方法論知識)の3軸(NEK)として整理している。詳しくは別の機会に譲るが、本記事で押さえておきたいのは「優秀人材と変革人材は別物である」という一点である。
組織はどう対処すべきか ── 4つの対処
ここまでの構造分析を踏まえて、組織として何をすべきか。4つの対処を提示する。
対処①:抜擢の構造を見直す
最も根本的な対処は、「既存事業のエースを新規事業に抜擢する」という意思決定そのものを見直すことである。
既存事業のエースを抜擢する場合、必ず Will の有無を確認する。Will とは、自分の内発的動機・原体験から、特定の課題に向き合う意志のことである。「上司に言われたから」「キャリアの幅を広げるため」「次のポストへの布石として」という外発的動機しかない場合、9単語の罠から抜け出すのは構造的に難しい。
逆に、Will が強い人物であれば、社内ネットワークの優秀人材的素養と、自分の意志で動く変革人材的素養を両立させられる可能性がある。抜擢の前に、Will の確認を必須プロセスに組み込むことを推奨する。
対処②:研修・トレーニングで「やってはいけないこと」を事前に伝える
新規事業に着任した既存事業のエースに対して、最初の1週間で、「9ステップの罠」を明示的に伝える。
「あなたが体に染み込ませてきた仕事の進め方は、ここでは通用しない」と、組織として宣言する。「確認・事例・調査・会議・資料を、社内・上司・先輩・競合に対して行うことを、1つたりとも出現させてはいけない」と、書籍の戒めを引いて伝える。
私が『新規事業の実践論』で「クドいほど書きます」と3回繰り返した戒めを、組織として、研修として、伝える。本人の自助努力に任せると、ほぼ間違いなく9ステップに戻る。組織として明示的に「戻ってはいけない」と伝えなければ、構造的な力が強すぎる。
対処③:経営層が「説明できない行動」を許容する
「顧客にひたすら会う」「仮説を変え続ける」という活動は、活動の途中段階では説明が成立しにくい。1ヶ月後の進捗報告会で「100人に会いました。100人とも外れました」という報告に対して、経営層は耐えなければならない。
経営層が短期的な説明性を求めると、現場は説明可能な行動(9ステップ)に逃げ込む。「3年間、顧客に会い続けてください。途中の説明は求めません」という覚悟が経営層に求められる。
これは難しい。役員会、取締役会、株主への説明責任を持つ経営層が、「説明できない期間」を許容するには相応の覚悟が要る。しかしこの覚悟がない組織で新規事業を始めても、9ステップの罠が再生産されるだけである。
対処④:失敗の許容
新規事業は失敗を前提に学ぶ活動である。1度の失敗で評価を下げる組織では、現場は失敗回避の作法、つまり9ステップに逃げる。
「失敗しても次のステージに進める」キャリアパスを設計する。新規事業の経験者が、失敗の有無に関わらず、組織内で次のチャレンジに進める仕組みを作る。これは制度設計の話であり、現場の根性論ではない。
「優秀な人」が新規事業で活躍するための3条件
ここまで組織の対処を論じてきたが、本人として何ができるか、も整理しておきたい。
優秀な人が新規事業で活躍するためには、以下の3条件のうち、少なくとも1つが必要である。
条件A:体に染み込んだ既存事業の作法を、意識的に「手放す」
9単語を意識的に排除する。朝、机に着いて、「過去の社内事例を調べたい」と思った瞬間に、それを止める。「先輩に相談したい」と思った瞬間に、それを止める。「資料を作りたい」と思った瞬間に、それを止める。代わりに、「今日は誰に会うか」だけを考える。
これは精神的に大きな負荷を伴う作業である。自分が10年、20年と築いてきた仕事の進め方を、意識的に否定する。違和感、不安、自己否定感がついて回る。それでもなお手放せた人だけが、新規事業の立ち上げ期を乗り越える。
条件B:Will を獲得する
自分の内発的動機・原体験から、特定の課題に向き合う動機を獲得する。「なぜ自分はこの課題に取り組むのか」を、上司への説明ではなく、自分自身に対して答えられる状態を作る。
Will があると、9単語の誘惑に流されにくくなる。「上司に確認を取る」より、「顧客に会って自分が信じる仮説を試す」ことの方が、自分の内発的動機に合致する。Will の獲得は、優秀人材から変革人材への変容の中核プロセスである。
条件C:変革人材の能力を補完する仲間と組む
自分一人で全てを変えようとしない。Network や Execution に強い仲間と組む。既存事業の作法を持ちつつ、Will の強さや、不確実環境での実行力を仲間から借りる。
これは「自分の弱さを認める」プロセスでもある。既存事業のエースは、自分一人で成果を出してきた自負があるため、仲間を必要とすることに抵抗を持つ場合がある。しかし新規事業は、優秀な個人ではなく、補完しあう小さなチームで進める活動である。
A、B、Cのいずれも揃わない状態で、新規事業に放り込まれた優秀人材は、9ステップの罠から構造的に抜け出せない。これは本人の能力の問題ではなく、構造の問題である。
AI時代における「優秀な人の罠」の進化
ここまでは、2019年に書いた『新規事業の実践論』の整理の延長線上にある。最後に、AI時代に入ってからこの構造がどう進化しているか、現時点の見立てを述べておきたい。
2024〜2026年にかけて、AI Sprint と Full-Product Launch によって、完成品を素早く作れる時代になった(麻生要一『AI収益進化論』第3章、第8章)。コーディング、画像生成、動画生成、調査資料生成、これらが数時間〜数日のスパンで可能になっている。
この変化は、本来であれば「優秀な人が9ステップに陥らずに、すぐに顧客に問える」方向の追い風になるはずだった。AI で簡易なプロトタイプを一晩で作り、翌朝には顧客に持っていく。そういう新しい立ち上げの作法が可能になっている。
ところが、現場で起きていることはむしろ逆である。
優秀な人ほど、AI を9ステップの加速装置として使い始めている。私が現場で見ている、新しいパターンの罠が3つある。
第1に、AI に作らせた成果物を、上司に確認させる。「AIが作った市場規模試算です、ご確認ください」「AIが作った競合分析です、ご意見ください」。9ステップのステップ1とステップ3が、AI によって高速化される。
第2に、AI が生成した競合分析を、会議で議論する。社内の会議室に集まって、AI が出してきた他社事例の解釈を巡って、議論を繰り返す。9ステップのステップ5、ステップ6、ステップ7が、AI によって素材が増え、議論の母材が膨らむ。
第3に、AI が量産した事例を、社内向け資料にまとめる。AI が出してきた100の事例を整理し、傾向を分析し、示唆を抽出し、美しいスライドにする。9ステップのステップ8とステップ9が、AI によって資料の質と量が向上する。
つまり、AI が9単語の連結による「無限の仕事」を加速させる構造が、いま静かに進行している。「優秀な人」が AI を手にしたとき、その人は AI を「顧客に会わないための道具」として使いがちである。なぜなら、それが体に染み込んだ仕事の進め方だからだ。
「AI を使えば顧客に会わなくても新規事業ができる」という誤解が、新しい罠を生んでいる。AI は仮説を生成できる、市場を分析できる、競合を整理できる、事業計画を書ける。しかし、AI は顧客の反応を引き出せない。顧客がプロダクトに触れて出てくる生の反応、表情、ためらい、無意識の使い方、これらは AI には生成できない情報である。
AI 時代こそ、「優秀な人ほどハマる最大の落とし穴」は深くなる。書籍の戒めの強さは、AI 時代こそ強化される、というのが現時点の私の見立てである。
AXアーキテクトという、AI時代の変革人材
AI時代の新規事業開発を担う人材像については、AlphaDrive が WP-04 として「AXアーキテクトの実装論」を整理している。詳細は別記事に譲るが、要点だけ述べておきたい。
AXアーキテクトは、変革人材の能力(Network・Execution・Knowledge)を土台に、AI Sprint・AI Orchestration・Full-Product Launch という AI 時代固有の能力を掛け合わせた人材像である。「優秀人材」が AI を9ステップの加速装置として使うのに対し、「AXアーキテクト」は AI を顧客との仮説検証の高速化装置として使う。
両者の違いは、AI を使う能力の有無ではない。AI を何のために使うか、という設計思想の側にある。優秀人材は AI を「社内向けの資料生成」に使い、AXアーキテクトは AI を「顧客に向けた完成品の高速立ち上げ」に使う。
優秀な人が新規事業で活躍するには、変革人材としての要素を獲得する必要がある。AI 時代においては、それが AXアーキテクトとしての要素である。これは本記事の本筋ではないので、関心ある方は ax-architect をご覧いただきたい。
私が現場で繰り返し見てきた、もう一つの真実
最後に、本記事のトーンを補足しておきたい。
私は「優秀な人を新規事業に使うな」と言いたいのではない。むしろ逆である。優秀な人が、新規事業の現場で変革人材へと変容していく姿を、私は何度も見てきた。
10年以上にわたる事業伴走の現場で、当初は9ステップの罠に深く落ちていた優秀人材が、ある時点から急に変わる瞬間がある。きっかけは、たった一度の顧客接点だったりする。資料を作っていた手を止めて、現場に出て、顧客と対話して、自分の仮説が完全に間違っていることに気づく。その衝撃の瞬間から、変容が始まる。
その変容を経た人物は、優秀人材の能力(高速で組織を動かす、合意を取る、再現性を作る)に、変革人材の能力(不確実環境での意志、顧客との対話、仮説の更新)を上乗せした、極めて強力な人材になる。私が知る最も成功している新規事業リーダーたちは、ほぼ例外なくこの変容を経ている。
つまり、優秀な人が新規事業で失敗するのは、本人の能力が低いからではない。構造的に失敗するように仕組まれた抜擢と、組織の暗黙の期待と、本人の身体に染み込んだ作法の三重奏が、変容のチャンスを奪っているからである。
組織として、抜擢の構造を見直し、研修で罠を明示し、説明できない期間を許容し、失敗を許容する。本人として、9単語を意識的に手放し、Will を獲得し、補完しあう仲間と組む。この両方が揃ったとき、「優秀な人ほどハマる最大の落とし穴」は「優秀な人が変革人材へと変容する入口」に転換する。
AI時代において、この変容を組織として支える仕組みは、これまで以上に重要になる。なぜなら、AI が9ステップの罠を高速化する一方で、AI が顧客との対話を高速化することもまた可能だからである。どちらの方向に AI を使うかは、人材の側にある。
「優秀な人ほどハマる最大の落とし穴」を、組織として明示し、本人として認識し、変容の経路を設計する。それが、AI 時代の事業開発における、最も基礎的かつ最も見過ごされている経営課題である。
AIは効率化から、収益の創造へ。その移行を担うのは、9ステップの罠を抜けて変革人材へと変容した、かつての優秀人材たちである。
よくある質問
Q1. 既存事業のエースを新規事業に抜擢するのは、絶対にやめるべきですか?
絶対にやめるべき、ではありません。問題は抜擢そのものではなく、抜擢の前に Will の有無を確認しないこと、抜擢後に「9ステップの罠」を明示的に伝えないこと、そして変容を支える組織的な仕組みを持たないことにあります。Will があり、罠を理解し、組織の支援がある場合、既存事業のエースは新規事業で極めて強力な変革人材になり得ます。むしろ既存事業の組織を動かす能力は、新規事業を社内で立ち上げる際の重要な資産でもあります。
Q2. 9ステップの中で、一つくらいはやっても良いステップはありませんか?
新規事業の立ち上げ期(仮説検証期)においては、1つたりとも出現させてはいけない、というのが書籍の戒めです。これは強い表現ですが、私が現場で繰り返し見てきた経験から弱めていません。理由は、9ステップは1つ始めると次のステップが連鎖的に呼ばれる構造になっているからです。社内事例調査を始めると、その結果を会議で議論したくなる。会議で議論すると、上司に報告したくなる。報告すると、資料を作りたくなる。1つだけで止めるのは構造的に難しい。立ち上げ期は「顧客に会う」以外の活動を意識的に排除する、と決め切ったほうが結果として速いです。
Q3. AI を使えば、9ステップを高速で回せて、それから顧客に会えば良いのではないですか?
これが現在、現場で最も多く見られる新しい罠です。AI で9ステップを高速化すると、確かに資料の質は上がります。しかし「顧客に会う」段階で出てくるのは、AI が作った精緻な仮説を「お客様に見ていただく」というモードになりがちです。顧客の生の反応に対して、仮説を捨てる柔軟性が失われます。AI が作った精緻な事業計画を、自分が捨てるのは精神的に難しい。AI 時代こそ、AI を「顧客に会わないための道具」ではなく「顧客に会うための完成品の高速立ち上げ装置」として使う設計思想が必要です。
Q4. 「優秀人材」と「変革人材」は、生まれつき決まっているのですか?
決まっていません。私が現場で見てきた優秀な事業リーダーたちは、ほぼ全員が優秀人材から変革人材への変容を経ています。変容のきっかけは、たった一度の顧客接点だったり、自分が深く向き合いたい課題(Will)との出会いだったり、補完しあう仲間との出会いだったりします。本記事で論じた「3条件」のいずれかが揃えば、変容は始まります。重要なのは、組織が変容を支える環境を作れるか、そして本人が変容に向き合う覚悟を持てるか、の2点です。
Q5. うちの会社では既存事業のエースしか新規事業に抜擢されません。組織として何から始めれば良いですか?
最も始めやすいのは、抜擢時の「Will 確認」を制度化することです。新規事業リーダーに抜擢する前に、本人の Will(内発的動機・原体験)を確認するインタビューを必須プロセスに組み込みます。Will が弱い場合は、抜擢を見送るか、Will を獲得するプロセスを抜擢前に組み込みます。次に、抜擢者全員に対して「9ステップの罠」を伝える研修を実施します。これだけでも、9ステップの罠に陥る確率は大きく下がります。そのうえで、経営層が「説明できない期間」を許容する覚悟を共有する。この3つから始めることをお勧めします。組織変革は、構造から手をつけるのが原則です。
関連概念
- AXアーキテクトとは何か:AI時代の事業開発を担う変革推進人材。変革人材の能力を土台に、AI Sprint・AI Orchestration・FPLという AI 時代固有の能力を掛け合わせた人材像。
- AXアーキテクト育成の5段階モデル:優秀人材から AXアーキテクトへの変容を支える、発掘・研修・OJT・独立・メンターの循環構造。
- AI導入の3段階:企業が AI 活用に取り組む過程の段階モデル。段階3 を越えるには、優秀人材の作法ではなく変革人材の作法が必要になる。
- 収益進化とは何か:AI でまだ存在しない収益を作るという質的変化。9ステップの延長線上には収益進化は存在しない。
書籍『AI収益進化論』では、AI 時代の事業創造を担う人材像として「収益進化家」を提示しています。優秀人材から変革人材、そして AI 時代の収益進化家への変容経路に関心ある方は、revenue-evolution および書籍特設ページ(/book)をご覧ください。
出典
- 麻生要一「新規事業の実践論」(2019)NewsPicksパブリッシング / Amazon
- 株式会社Ambitions(AlphaDrive 100%子会社)「AI収益進化論──完成品製造コストゼロ時代の収益創造」(2026)https://axfr.ai/book
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